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益子の文化
益子には国指定文化財をはじめ、県、町の指定するものまで、多くの文化財が残っています。
国指定文化財県指定文化財町指定文化財

伝統文化
町指定文化財1234567
益子参考館内登り窯(平成5年11月5日)
所在地/益子町益子3388 所有者/益子参考館
重要無形文化財保持者(人間国宝)で益子参考館設立者でもある濱田庄司によって築かれた窯であり、昭和53年(1978)83歳で死去するまでの間、年2〜3回の窯焼を行い、数々の名品を世に送り出した。また最近ではほとんど姿を消してしまった登り窯の形式をよく伝えている。
益子参考館細工場(平成15年3月20日)
所在地/益子町大字益子3388所有者/益子参考館
益子町大字上大羽の黒子邸(益子町大字上大羽680)で製陶の作業場だった建物を、濱田庄司が昭和16年(1941)に当地に移築したもので、その際多少の部材の交換などは認められるが、町内にある細工場の中では初期の形式を最も残している。
岩下製陶(太平窯)登り窯2基(平成19年7月8日)
所在地/益子町益子4303ほか 所有者/岩下哲夫
(東側)連房式8室登り窯 砂窯式 大口2口
間口5.8m 奥行き10.7m 高さ1.7m
慶応2年益子町旧大平村にて岩下作衛門が大田原藩の許可により作陶を始め、明治16年その子太平が現在地に製陶所を設立した際に築いた登り窯である。
相馬から笠間、益子に伝わった登り窯の古い形式を残している。益子最古の登り窯である。
(西側)連房式10室登り窯 砂窯式 大口2口
間口5.94m 奥行き18.7m 高さ1.8m昭和28年頃再築窯して昭和50年頃まで使用していた。現在は古い窯道具と一緒に保存されている。静岡以北では最大の登り窯である。
■ 妙伝寺山門(平成10年7月1日)
所在地/益子町山本724 所有者/妙伝寺
観音菩薩立像 102.8cm 桧材、一木割矧ぎ造り、彫眼、平安時代
妙伝寺第三世住持毛利てん慶の代に建立する。明治40年(1909)2月に起工し、明治41年(1910)4月7日に落成する。欅造でこの型の山門は関東では珍しいといわれている。棟梁加藤伊之吉、彫刻師 岡部信之助、石工 安達丑松、左官 鈴木興吉、瓦師 軽部新之助らによって建築された。岡部信之助は宇都宮市今小路町の彫刻師で、名工といわれており、建物にほどこされた彫刻からもその力量をうかがうことができる。総工費は当時の金で、2148円24銭、大工1088人手間、石工371.5人手間、彫刻320人手間等の記録がある。
内町彫刻屋台(平成元年9月1日)
所在地/益子町益子 所有者/内町自治会
明治14年(1881)頃に宇都宮市新石町より購入した屋台で、本体は棟梁高田仲右ヱ衛門の作であり、東照宮の建築の影響を受け、見せるための彫刻で飾ってある。
 構造上も宮型の特徴があり、屋根は唐波風造り単層屋根型で、せまいおどり場と内室に分かれている。正面には龍、見せ場の鬼板と懸魚には龍、脇障子には獅子に牡丹が彫刻仕立てとなっており雄大でしかも絢欄豪華な優品である。
■ 新町彫刻屋台(平成元年9月1日)
所在地/益子町益子 所有者/新町自治会
黒漆塗の彩色彫刻屋台で益子町においては一番古い屋台である。明治13年(1880)に宇都宮市押切町より購入し、彫刻は後に新町地区に於いて付け加えられた。
 鬼板は丸彫で飛龍が、脇障子は菊と上下に龍が彫ってあり、飾り金具も豪華である。「文化十四年丁年押切町 文化十四己年 昭和五十四年十月新調 屋躰塗替明治十三年□旧ハ月 同至十四貮旧四月 益子村新町」の銘文あり。
平成11年7月28日焼損。平成12年5月から3年間かけて平成15年7月に復元。彩色も当時のものとし、よみがえった。(写真は焼損前のもの)>

以前の屋台

現在の屋台
松本屋台(平成2年9月4日)
所在地/益子町山本 所有者/松本自治会
京都において制作し、船で品川、那珂川を経由して茂木で陸揚げされ、大八車で当地に運ばれたと伝えられる。京都八坂神社の祇園際のものを形どったと伝えられ、町内に見られる彫刻屋台とは趣が異なり、また高さもあり京都の作風が感じられる。県内でも珍しい屋台の一つである。毎年7月28日(現在はその日に近い日曜日)の祇園祭で引き廻される。
原彫刻屋台(平成2年9月4日)
所在地/益子町山本 所有者/原自治会
宇都宮市で製作され、明治29年(1896)水橋村西高橋から白木の形で購入し、明治43年(1910)頃、福島県白河市の職人によって現在のように彩色された。屋台保持のため屋台会館も整備され、毎年7月28日(現在はその日に近い日曜日)の祇園祭に引き廻される。  「天保十二年丑十月吉日」の銘あり。
田町彫刻屋台(平成元年9月1日)
所在地/益子町益子 所有者/田町自治会
明治15年(1882)頃宇都宮市日野町から購入した屋台で、本体は棟梁高田仲右ヱ衛門の作である。
 金箔を惜しみなく使った黒漆塗彩色彫刻屋台であり、飾り金具、彫刻も雄大で見せ場を作った優品である。しかも各所には繊細な技法を用い、正面に獅子、鬼板には丸彫の獅子、脇障子に鳳凰、障子に梅、懸魚に牡丹、高欄間下に飛龍を彫刻で仕立てている。
元禄絵地図(昭和48年2月7日)
所在地/益子町益子900 所有者/平野良和
陣屋と古館跡を中央やや南西方向に、東に高館城跡とその出城跡を描き、その東は上大羽村、西は小貝川を隔てて塙村と接している。道路を朱線で表し、池および河川を青で示している。また山は樹木を緑で、御朱印地は桃色で彩色が施され、民家は屋根型で表し、田畑の区分は文字をもって表示している。左上に「元禄十四壬午年四月」説明図を挟んで右上に「此図百間弐寸 仕立指上申侯」とあり、百間を二寸に縮小(1/3000)して地図を作ったと記してある。